1576年(天正4年)

波多野秀治、丹波黒井城の赤井氏を支援して、城を囲む明智光秀軍を退ける
丹波の波多野秀治は、同国黒井城の赤井氏に援軍を送り、黒井城を攻囲中の織田家臣・明智光秀の軍を破った。

原胤栄、下総千田庄内の妙興寺に制札を出す
下総臼井城主・原胤栄が、同国千田庄内の妙興寺に対し、「横合狼藉等之儀」を堅く禁じる証状(制札)を与える。原氏の勢力が下総東部の千田庄にも浸透している事を物語るものとして注目される。

塙直政ら、織田信長から大坂攻めを命じられる
織田家臣の塙直政(原田直政)・荒木村重・長岡藤孝(細川藤孝)・明智光秀らは、織田信長から摂津大坂の石山本願寺攻めを命じられ出陣した。

塙直政、摂津三津寺を攻めて討死する
織田家臣で摂津大坂攻めに出陣していた塙直政(原田直政)が、三津寺を攻めて討死した。

北畠信雄、紀州熊野を攻めるも反撃に遭い失敗する
織田信長次男の北畠信雄(織田信雄)は、家臣の赤羽新之丞を大将として紀伊熊野山討伐に派遣。だが熊野方の反撃に遭い、伊勢梅谷の長島城を落とされ、赤羽も熊野方に寝返るなどして失敗に終わった。

里見氏、北条氏に従った正木時忠が病没する
房総の里見氏に従い安房勝浦城主となり、その後北条氏に通じた正木時忠が病没した。嫡男であった正木時通は、この前年の1575年(天正3年)に先立っており、家督は時通の弟の正木頼忠が相続している。

丸景明の嫡男・丸竹千代丸死去
安房の豪族で里見氏の臣・丸氏の一族の丸景明(丸但馬守)の嫡男・丸竹千代丸が没した。享年不詳。

下総臼井城主・原胤栄の臣・斎藤胤次、上総市原庄八幡宮に朱印状を発給する
下総臼井城主・原胤栄の奏者・斎藤胤次(斎藤善七郎)が、上総市原庄の八幡宮造営に際して「諸郷勧進」を認める旨、主君胤栄の意を得たとして朱印状を発給している。

北条氏照、被官船一艘の往復を認め安堵する
北条氏照は、被官船一艘の佐倉・関宿間と、葛西・栗橋間の往復を認め安堵した。関宿城主・簗田氏旧臣の会田氏に伝わる文書で、会田氏は武士でありながら水運業者の側面も持っていたという。なお会田氏は近世には関宿の商人となっている。

赤松広秀、再び上洛して織田信長に謁して太刀等を贈る
播磨龍野城主・赤松政秀の嫡男・赤松広秀(斎村政広)は、前年に続いて上洛して織田信長に拝謁。太刀等を贈った。広秀は当時15歳。