1503年(文亀3年)

細川政元、南近江守護代・伊庭貞隆を支援して六角高頼を日野城に攻める
―近江◆
管領・細川政元が、南近江半国守護・六角高頼と守護代・伊庭貞隆の戦いに介入し、伊庭氏を支援。赤沢朝経(赤沢宗益)を大将とする軍勢を派遣し、伊庭勢と共に六角高頼の籠もる近江日野城を攻めた。

朝倉貞景、謀叛を企てた敦賀郡司・朝倉景豊を攻めて滅ぼす
―越前◆
越前の朝倉貞景が、舅の朝倉元景(朝倉景総)と共に謀叛を企てた敦賀郡司・朝倉景豊を敦賀城に囲み、自害に追い込んだ。景豊の企てを報じた朝倉教景(朝倉宗滴)は、この功績で敦賀郡司に任じられた。

水原氏、検断不入の特権を安堵される
―越後◆
越後の国人・水原氏が、守護・上杉房能の臣の長尾輔景・斎藤昌信から連署奉書を受け、検断不入の特権を安堵される。

下総相馬岡田氏の相馬信胤、地内質物を売り渡す
―下総◆
下総相馬郡南部の相馬岡田氏の(相馬伊予守・前伊予守)が、在家・具足・馬・甲等の地内質物を、蔵本長徳寺へ残らず売り渡す。

伊達尚宗、蘆名盛高との合戦に際し、越後勢の助力を要請して中条藤資に書状を送る
―陸奥◆
奥州の伊達尚宗は、会津の蘆名盛高との合戦に際して、越後上杉氏の助力を求め、上杉家臣である中条藤資宛に書状を送った。

下総相馬氏の相馬某死去
―下総◆
下総相馬氏当主と考えられる相馬某(相馬守屋殿)が没した。世代的に相馬胤徳(徳誕蔵主)の父・相馬胤実(相馬左衛門尉)或いは祖父・相馬胤高(相馬上野介)あたりであろうか。

足利愛松王丸、得度して空然と称す
―相模◆
足利政氏の次男・愛松王丸が、鎌倉鶴岡八幡宮別当となり、得度して空然と称す。愛松王丸は後の小弓公方・足利義明である。鶴岡八幡宮別当は雪下殿・社家様などと呼ばれたという。

公卿補任: 文亀3年
―京都◆
足利義澄、鷹司兼輔、飛鳥井雅俊、持明院基春、山科言国