1508年(永正5年)

平林城が落城し、色部昌長が長尾為景方に降伏する
―越後◆
守護代・長尾為景と、為景に擁立された守護・上杉定実に抵抗を続けて来た揚北衆の色部昌長であったが、ついに居城の平林城が落城。昌長は降伏した。平林城攻めでは寄せ手は多大な犠牲者を出したという。

足利義尹、大内義興らを率いて和泉堺から京に入る
―京都◆
前将軍・足利義尹(足利義稙)が、大内義興や畠山尚順、細川高国らを率いて和泉堺から入京。吉良邸を仮の御所とした。これ以前、管領・細川澄元と将軍・足利義澄は京から逃れており、義尹の復権を阻む勢力はなくなっていた。

足利義尹、征夷大将軍に復職する
―京都◆
前月に入京した前将軍・足利義尹(足利義稙)がこの日、正式に征夷大将軍に復職した。

細川高国が管領・右京大夫に、大内義興が山城守護・左京大夫に任じられる
―京都◆
足利義尹(足利義稙)の将軍復帰の立役者の細川高国と大内義興が、それぞれに官位叙任と幕府役職を与えられた。細川高国は右京大夫となり、管領並びに細川京兆家の家督に、大内義興は左京大夫となり、山城守護にそれぞれ任じられた

長尾為景に反抗した本庄時長が降伏する
―越後◆
前年より守護代・長尾為景と、為景に擁立された新守護・上杉定実に反抗を続けていた越後本庄城主・本庄時長がついに降伏する。時長は家督を子・本庄房長に譲り隠居したが、この翌年に没している。

里見義通、安房鶴谷八幡宮を修造する
―安房◆
里見義通が、安房八幡村の鶴谷八幡宮を修造した。棟札では古河公方・足利政氏の副帥として自身を位置づけており、古河公方の権威を持って安房支配を進めたと見られる。

大熊政秀ら五名、上杉定実の公銭方として連署奉書を発給する
―越後◆
倉俣実経、大熊政秀、長授院妙寿、関沢顕義、他一名の五名が、越後守護・上杉定実の公銭方として連署奉書を発給する。

正木通綱、安房国の国衙奉行人として名を残す
―安房◆
安房正木郷の正木通綱、「国主」里見義通のもとで国衙奉行人として名が見える。

公卿補任: 永正5年
―京都◆
勧修寺尚顕、久我通言、今出川季孝、花山院忠輔、冷泉永宣、足利義尹(足利義稙)、四辻公音、阿野季綱、烏丸冬光、広橋守光、足利義澄、冷泉為広