1509年(永正6年)

越後国人・本庄時長が没する
―越後◆
守護代・長尾為景と守護・上杉定実に抵抗して前年隠居していた本庄時長が、隠居地の越後瀬波郡猿沢で病没した。法名・綱山統公庵主。

土佐岡豊城落城、長宗我部兼序が自害し、長宗我部氏が滅亡する
―土佐◆
長宗我部氏の土佐岡豊城が、本山氏・山田氏・吉良氏・大平氏ら周辺の豪族の攻撃を受けて落城。当主の長宗我部兼序は自害し、長宗我部氏は一旦滅亡した。

足利高氏、父・政氏と和議を結び、古河御所に帰座
―下総◆
永正の乱で古河御所から離れていた古河公方・足利政氏の嫡男・足利高氏が、山内上杉顕定(上杉可諄)の調停を受け、古河御所に帰座した。

関東管領・上杉顕定、上州の軍勢八千余騎を率いて越後へ入る
―越後◆
弟の越後守護・上杉房能を、守護代である長尾為景に討たれた関東管領・山内上杉顕定は、上野の軍勢八千余騎と号する大軍を率いて越後に入った。

伊達尚宗、越後の上杉定実の求めに応じ援軍を出す
―出羽◆
奥羽の伊達尚宗が、関東管領・山内上杉顕定の越後侵攻で劣勢の上杉定実の求めに応じ、越後揚北方面に数百騎の援軍を派遣し、威圧を加えた。実際に顕定方と戦闘が起きたかは不明。

連歌師宗長、武蔵勝沼に至り三田氏のもとに滞留する
―武蔵◆
連歌師の宗長が関東の旅の途上、武蔵勝沼の三田氏宗(三田弾正忠)のもとを訪ね、その後十五日ほど滞在。その間、たびたび連歌会を行った。

扇谷上杉朝良、相模西部へ侵攻し伊勢氏と戦う
―相模◆
扇谷上杉朝良は、伊勢宗瑞(北条早雲)の相模中部進出に反撃し、同国の三浦義同・三浦義意父子を率いて、相模西部の伊勢氏の前線拠点・鴨沢要害(中村要害)を攻撃し勝利した。

公卿補任: 永正6年
―京都◆
姉小路済継、四辻公音、阿野季綱、烏丸冬光、広橋守光、北畠材親、高辻章長、徳大寺実淳、花山院忠輔