1510年(永正7年)
・・・佐渡◆ 長尾為景、佐渡を発って越後蒲原津に上陸
・・・武蔵◆ 伊勢宗瑞、扇谷上杉方の武蔵椚田城を攻略する
・・・越後◆ 長尾房景、山内上杉顕定に属して長尾為景と戦う
・・・下総◆ 古河公方家の父子相剋が再燃、足利高基が関宿城へ移座する
・・・越後◆ 山内上杉憲房、越後椎谷に長尾為景を攻めるも敗れる
・・・越後◆ 長森原の戦い――長尾為景、関東管領上杉顕定を越後長森原に討つ
・・・相模◆ 上田蔵人入道・長尾帯刀左衛門尉ら、相模で決起して伊勢宗瑞に応じる
・・・相模◆ 扇谷上杉朝良、山内上杉氏の援軍を得て、伊勢方の相模権現山要害を攻略する
・・・越後◆ 中条藤資、上杉定実から蒲原郡内の地などの知行宛行を受ける
・・・相模◆ 三浦義同父子、伊勢方の相模住吉要害・津久井山を攻略する
・・・相模◆ 扇谷上杉朝良、相模小田原を攻める
・・・京都◆ 公卿補任: 永正7年

山内上杉顕定、越後を席巻し、長尾為景と上杉定実を国外へ逐う
前年7月に弟の越後守護・上杉房能の仇討ちのため越後へ侵攻した関東管領・山内上杉顕定は、越後国内の国人らの呼応もあって、この頃に長尾為景を越中、次いで佐渡へ逐った。しかし、同月末頃には、為景は佐渡から越後へ戻り、後の長森原の戦いに繋がった。

長尾為景、佐渡を発って越後蒲原津に上陸
関東管領・山内上杉顕定の越後侵攻によって佐渡へ逃れていた長尾為景は、この日佐渡を出立。越後蒲原津に上陸した。この後、為景は椎谷に陣を構えて顕定と対峙する事となる。

伊勢宗瑞、扇谷上杉方の武蔵椚田城を攻略する
伊勢宗瑞(北条早雲)は武蔵へ侵攻し、扇谷上杉方の武蔵椚田城を攻略した。宗瑞はその後、更に相模へ向かっている。

長尾房景、山内上杉顕定に属して長尾為景と戦う
長尾房景(栖吉長尾氏)、山内上杉顕定に属して、長尾為景と戦う。

古河公方家の父子相剋が再燃、足利高基が関宿城へ移座する
一時は和議を結んだ古河公方・足利政氏とその嫡男・足利高基であったが、この頃に再び不和となり、「御方御所様、連々御退屈故」に簗田高助の関宿城へ移座した。

山内上杉憲房、越後椎谷に長尾為景を攻めるも敗れる
越後在陣中の関東管領・山内上杉顕定の養子の上杉憲房が、越後椎谷(新潟県柏崎市)に陣を布く長尾為景を攻めるも敗退した。この結果を受けて、越後府内では一揆が起きたという。

長森原の戦い――長尾為景、関東管領上杉顕定を越後長森原に討つ
越後へ侵攻していた関東管領・山内上杉顕定(上杉可諄)が、関東への帰路の途中、長尾為景と越後長森原で戦い敗れて討死した。享年57。一時は為景方が劣勢であったが、高梨政盛(高梨摂津守)が奮戦し、顕定を討ち取った。

上田蔵人入道・長尾帯刀左衛門尉ら、相模で決起して伊勢宗瑞に応じる
扇谷上杉氏の家臣・上田蔵人入道(上田政盛?)が、相模権現山の要害で決起。相模西部へ進出した伊勢宗瑞(北条早雲)に応じ、その与力となった。

扇谷上杉朝良、山内上杉氏の援軍を得て、伊勢方の相模権現山要害を攻略する
扇谷上杉朝良は、山内上杉憲房からの援軍を得て、離反して伊勢宗瑞(北条早雲)に与した上田蔵人入道の拠る相模権現山要害を攻略した。扇谷・山内両上杉連合軍は、同月11日から攻撃を開始、この日夜中に攻略した。

中条藤資、上杉定実から蒲原郡内の地などの知行宛行を受ける
越後の豪族・中条藤資が、越後守護・上杉定実から蒲原郡内の奥山庄などの地を給される。