1521年(永正18年/大永元年)

古河公方・足利高基、嫡男・晴氏と伊勢氏綱娘の婚姻を約す
古河公方・足利高基は、自身の嫡男・亀若丸(足利晴氏)と、伊勢氏綱(北条氏綱)の娘の婚姻を約した。しかしこの時は婚姻は果たされず、1539年(天文8年)に至ってようやく縁談が纏まっている。

将軍・足利義稙、京都を出奔
将軍・足利義稙(十代将軍)は、細川高国との不和により、この日夜に京都を出奔した。幕府は将軍不在となる。

足利義稙、堺から淡路へ渡る
7日に京都を出奔していた足利義稙は、この日和泉堺から淡路へ渡った。細川高国の元から逃れ、細川澄元の庇護を求めたと見られる。

下総高城氏、足利義明方の付城を攻めるも敗れる
下総小金城(根木内城)の高城氏が、小弓公方・足利義明方の付城・名都借城を攻めるも反撃を受けて敗退した。

足利義明が下総小弓城に入り、小弓御所と称される
兄の古河公方・足利高基と対立して各地で衝突していた足利義明は、この年前半頃に下総小弓城へ座を移して本拠とした。以後、小弓御所・小弓上様(小弓公方)と称される。

里見上野入道、下総西部へ進出して高城氏の行人台城を攻略する
小弓公方・足利義明の命を受け、古河公方方の下総関宿城攻略を命じられた里見上野入道(里見義通)は、下総西部へ進出。小金城(根木内城)の高城氏の支城・行人台城を攻略した。

古河公方方の臼井氏ら、小弓公方方と下総西部で戦う
古河公方・足利高基に与する下総の臼井氏、豊島氏、武蔵の会田氏らが、小弓公方・足利義明方の軍勢と下総西部の「金」(小金)から「市河」辺りで戦った。

下総臼井城主・臼井氏が古河公方方を離反し、小弓公方方に転じる
この頃下総臼井城主の臼井氏が、古河公方・足利高基支持から転じて、小弓公方・足利義明方となる。下総臼井庄は双方の勢力圏の中間にあって、臼井氏は去就に揺れていたと言われる。

足利高基、千葉勝胤に宛てた書状内で臼井氏離反を非難する
古河公方・足利高基は、千葉勝胤に宛てた書状の中で、高基方を離反して足利義明に与した下総臼井城の臼井氏を「臼井不忠先代未聞候」と非難している。

公卿補任: 大永元年
今出川公彦、河鰭実治、山科言綱、花山院政長、甘露寺元長、三条西公条、九条稙通、小倉季種、勧修寺尚顕、四条隆永、四辻公音、中山康親、西園寺実宣、甘露寺伊長、高辻章長、四条隆継、日野内光、三条実香、二条尹房、大炊御門経名、徳大寺公胤、三条公頼、鷲尾隆康、万里小路秀房、上冷泉為和、下冷泉為孝、水無瀬英兼、正親町実胤