1525年(大永5年)
・・・武蔵◆ 上杉憲広、北条方の武蔵菖蒲城を攻める
・・・上総◆ 真里谷信清、北条氏綱と断交、小弓公方・足利義明も反北条に転じる
・・・上野◆ 関東管領・山内上杉憲房が没する
・・・武蔵◆ 扇谷上杉朝興、小弓公方らと結んで北条方の武蔵蕨城を攻略する
・・・京都◆ 越後長尾氏の京都雑掌・神余昌綱、国元の長尾為景に畿内近国の状況報告を送る
・・・安房◆ 里見義豊、相模への渡海作戦の準備を始める
・・・武蔵◆ 山内上杉憲寛、武蔵へ進出し北条方の小沢城を攻略する
・・・下総◆ 下総相馬氏の相馬胤徳没す
・・・相模◆ 里見義豊、相模鎌倉へ渡海攻撃し鶴岡八幡宮を破壊するも撃退される
・・・京都◆ 公卿補任: 大永5年

北条氏綱、武蔵岩付城を再び攻め落とす
―武蔵◆
北条氏綱は武蔵岩付城へ侵攻。扇谷上杉朝興勢を多数討ち取り、再び城を攻め落とした。

上杉憲広、北条方の武蔵菖蒲城を攻める
―武蔵◆
古河公方・足利高基の次男で山内上杉憲房の養子・上杉憲広(上杉憲寛・御連枝四郎殿)が、北条方の金田某の属城である武蔵菖蒲城を攻めた。

真里谷信清、北条氏綱と断交、小弓公方・足利義明も反北条に転じる
―上総◆
山内上杉憲房・扇谷上杉朝興は、小弓公方・足利義明を奉じる上総の真里谷信清(真里谷恕鑑)に対し、北条氏綱との断交を要請。信清はこれを容れて氏綱を「相捨候」として断交を表明した。

関東管領・山内上杉憲房が没する
―上野◆
関東管領の山内上杉憲房が上野平井城で病没した。享年59。没日については4月16日ともいう。

扇谷上杉朝興、小弓公方らと結んで北条方の武蔵蕨城を攻略する
―武蔵◆
扇谷上杉朝興は、小弓公方・足利義明や安房の里見義豊、真里谷武田氏と結び、北条氏に奪われていた武蔵蕨城を奪還した。

越後長尾氏の京都雑掌・神余昌綱、国元の長尾為景に畿内近国の状況報告を送る
―京都◆
越後長尾氏の臣で京都雑掌として在京している神余昌綱は、畿内近国の状況を越後の長尾為景に報告した。この中で将軍家の御所新造の賦役が越後にも課された事が報じられている。

里見義豊、相模への渡海作戦の準備を始める
―安房◆
扇谷・山内両上杉氏と結んで北条氏綱に対抗する里見義豊は、この日上杉陣営からの書状を受け取り、相模鎌倉への出陣を求められてこれを承諾。自ら渡海すべく準備を始めた。

山内上杉憲寛、武蔵へ進出し北条方の小沢城を攻略する
―武蔵◆
扇谷上杉朝興と結んで北条氏へ対抗する山内上杉憲寛は、上野平井城から武蔵へ進出。朝興軍と共に武蔵南部の小沢城を攻め、これを攻略した。

下総相馬氏の相馬胤徳没す
―下総◆
下総守谷城主・下総相馬氏の徳誕蔵主(相馬胤徳・宝林庵主)が没す。相馬胤実(相馬左衛門尉)の子で、古河公方足利氏に仕えた。家督は嫡男・相馬胤広(相馬因幡守)が相続している。

里見義豊、相模鎌倉へ渡海攻撃し鶴岡八幡宮を破壊するも撃退される
―相模◆
扇谷・山内両上杉氏と結んで北条氏綱に対抗する里見義豊は、両上杉氏からの求めに応じて軍船数百艘を催して相模鎌倉へ押し渡り、鎌倉市中や鶴岡八幡宮への濫妨狼藉を行った。