1537年(天文6年)

武田信虎の息女、駿河の今川義元に嫁す
甲斐の武田信虎の息女・定恵院が、駿河の今川義元に嫁した。この時「聟引出物」として贈られたのが左文字の刀(無銘、宗三左文字・義元左文字と呼ばれる)である。

扇谷上杉朝興が武蔵河越城で没する
扇谷上杉家の当主・上杉朝興が武蔵河越城で没した。享年50。家督は13歳の子・上杉朝定が相続した。

真里谷信隆、北条氏綱と結んで蜂起する
上総の真里谷信隆は、家督を継いだ異母弟・真里谷信応に対抗し、北条氏綱と結んで上総真里谷新地城で蜂起した。

足利義明、真里谷信応を支援して真里谷信隆方の上総峯上城を攻める
真里谷武田氏の家督争いで、真里谷信隆が北条氏綱と結んで決起したのを受け、小弓公方・足利義明は真里谷信応を支援。自ら出馬して信隆方の上総峯上城を攻めた。

里見義堯、北条氏綱と断交して足利義明に応じる
安房の里見義堯は、北条氏綱と断交。小弓公方・足利義明に応じ、真里谷氏の内紛で真里谷信応方となった。これを受け義明方は、真里谷信隆の上総百首城へ三ヶ国の兵で攻める由を表明した。

北条氏綱、足利義明と和議を結び、真里谷氏の内紛が終息する
里見氏の離反を受けて劣勢となった北条氏綱は、足利義明方との和議を模索。鎌倉東慶寺の塔頭・蔭涼軒の長老を通して講和交渉を行った結果、この日に和議がまとまった。

鎌倉鶴岡八幡宮の僧、足利義明近臣の逸見祥仙へ房総からの材木搬出を依頼する
真里谷氏の内紛により、安房や上総からの鎌倉鶴岡八幡宮造営の資材が差し止められた事を受け、鶴岡八幡宮供僧の相承院快元・淨国院尊雅の両名は、足利義明の近臣・逸見祥仙(逸見山城入道)へ書状を出し、搬出の再開を依頼した。

北条氏綱、武蔵へ侵攻して河越城を攻略する
扇谷上杉朝興の死後、その跡を継いだ上杉朝定が相模侵攻を企てていると聞いた北条氏綱は、ただちに武蔵へ進出。河越城の南西・三木に陣を構えて扇谷上杉軍と戦い勝利し、その勢いで河越城も攻略した。

北条氏綱、武蔵松山城を攻撃し、扇谷上杉方を破る
武蔵河越城を奪取した北条氏綱は、武蔵松山城で河越城奪回の準備が進められていると聞き、大軍を率いて松山城へ侵攻。松山城下の戦いで扇谷上杉方と戦い、これを撃破した。

下総大谷口城完成、高城胤吉が根木内城より移る
享禄3年(1530年)より築城していた下総の大谷口城(小金城)が完成し、高城胤吉が根木内城から移った。