1541年(天文10年)

千葉氏家臣・原日陽が没する
―下総◆
下総小西城主で千葉氏の家臣・原日陽(小西日陽)が没した。官途名は能登守、法名・光信という。

北条氏綱、家督を嫡男・氏康に譲る
―相模◆
北条氏綱が、家督を嫡男・北条氏康に譲る置文を与えた。氏康はこの時27歳。氏綱はこの年夏頃から病となっていた。

北条家二代・北条氏綱が没する
―相模◆
この年夏頃から病に伏せっていた北条氏綱が没した。享年55。没日は19日ともいう。夏頃に病となった氏綱は、5月に家督を嫡男・北条氏康に譲り、7月4日には出家していた。

越後の鮎川氏、色部氏に起請文を提出し、同族小川氏と和睦する
―越後◆
越後揚北衆の鮎川氏は、同族である小川氏と所領を巡って熾烈な抗争を続けていたが、同じく同族である色部氏の調停で和睦。起請文を入れた。

山内上杉憲政・扇谷上杉朝定、北条氏の武蔵河越城を攻める
―武蔵◆
同年7月、北条氏綱が没した事を好機と見た山内上杉憲政、扇谷上杉朝定は、軍勢を催して北条氏に奪われた武蔵河越城に攻め寄せた。合戦は城の内外で二度行われたと言うが、北条方はよく防戦し、両上杉軍を撃退した。

扇谷上杉朝定の軍勢、武蔵江戸へ侵攻する
―武蔵◆
扇谷上杉朝定の軍勢が、北条方の武蔵江戸へ侵攻。この時扇谷上杉軍は、山内上杉憲政と共に武蔵河越城も攻撃している。扇谷上杉軍は武蔵品川の妙国寺に禁制を出しているが、戦闘があったのかは不明。

北条氏康、上野国境付近の武蔵本庄まで進出する
―武蔵◆
父・北条氏綱死去の間隙を突いて武蔵各地へ進出して来た山内上杉憲政・扇谷上杉朝定に対して、北条氏康が反撃。武蔵・上野国境付近の武蔵本庄にまで進出した。

千葉親胤、下総国に生まれる
―下総◆
下総千葉氏当主・千葉昌胤の四男・千葉親胤が生まれた。後に千葉氏を相続したが、17歳で家臣の逆心に遭い殺害されている。