1546年(天文15年)

北条氏康、相模一宮・寒川神社を再興する
―相模◆
北条氏康は相模一宮の寒川神社を再興した。棟札には「所冀国家安泰、人民快楽、子孫繁衍、兵戈獲利」と記して、来たるべき合戦の勝利を祈念している。

北条氏康、岩付太田資時との親交を図る
―武蔵◆
山内上杉憲政らの河越城の包囲が続いている中、北条氏康は河越城東方の岩付城主・太田左京亮(太田資時・太田全鑑)との親交を図るため、その家臣・上原出羽守に書状を出して仲介を依頼した。

北条氏康、相模江ノ島神社に戦勝を祈願する
―相模◆
北条氏康はこの月中旬に小田原城を出陣。この日に江ノ島神社(江島弁天)別当岩本坊へ「就出陣」として神馬を奉納して戦勝を祈願した。

河越夜戦――北条軍、山内・扇谷両上杉軍を小勢で打ち破る
―武蔵◆
北条氏康は武蔵砂窪で河越城を包囲する山内上杉憲政・扇谷上杉朝定の陣を夜襲。油断をしていた両上杉軍は上杉朝定を始め多くの武将が討死するなど大敗を喫した。

山内上杉憲政、赤堀上野守の娘に所領継承を認める
―上野◆
河越での敗戦から逃れて上野平井城に戻った山内上杉憲政は、河越で討死した上野佐波郡の赤堀上野守の娘に、親の忠信をもって「名代職」を認めて所領を継承させた。

北条氏康、古河公方・足利晴氏の重臣・簗田高助に書状を送り、晴氏の背信行為を責める
―下総◆
北条氏康は、古河公方・足利晴氏の重臣である簗田高助(簗田中務大輔)に書状を送り、縁戚でありながら敵方に加担した晴氏の背信について強く非難した。

尾張の織田信秀の嫡男・信長が元服する
―尾張◆
尾張の織田信秀の嫡男・吉法師が元服し、織田信長を称した。