1547年(天文16年)

下総千葉の妙見宮遷宮始まる
―下総◆
下総千葉氏の尊崇を集める千葉妙見宮の鉋立(手斧始め)の儀式が行われ、遷宮のための造営工事が始まった。工事の指揮は千葉氏重臣の原胤清が執る事となる。

北条氏康、下総相馬口へ進出して古河公方に圧力を加える
―下総◆
北条氏康は、下総相馬口へ軍勢を進出させ、古河公方・足利晴氏への圧力を加えた。下総相馬口は古河公方家の御料所が点在する古河勢力圏の外縁部で、下総相馬氏の地盤。

北条氏康、下総相馬口での軍事行動に関して感状を与える
―下総◆
北条氏康は、前月に行われた下総相馬口での軍事行動に関して「今度相馬口之動」「於除場走廻候、忠節候」として、興津神次郎・桜井某に対して感状を与えた。

武蔵岩付城主・太田資時が北条氏に帰属する
―武蔵◆
武蔵岩付城主で扇谷上杉氏の旧臣・太田資時(太田左京亮)が、家臣・上原出羽守の手引きにより、北条氏康に帰属した。

岩付太田家臣・上原出羽守、北条氏康から本領安堵・守護不入などを認められる
―武蔵◆
岩付太田氏の太田資時(太田左京亮)の家臣・上原出羽守が、北条氏康から武蔵市郷を安堵され、同郷に於ける城米・押立・棟別・段銭などの公事を赦免され、守護不入を認められた。

織田信秀、美濃稲葉山城を攻めるも敗れる
―美濃◆
詳細後日

武蔵岩付城主・太田資時が没する
―武蔵◆
武蔵岩付城主の太田資時(太田左京亮)が没し、弟の太田資正が岩付太田氏の家督を相続した。資正が家督を相続した後、岩付太田氏と北条氏の関係は悪化し、岩付太田氏は北条氏から離反している。

北条氏康、太田資正の武蔵岩付城を攻める
―武蔵◆
北条氏康は、岩付太田氏の臣・上田朝直の内応を契機として、岩付城に太田資正を攻めた。