1572年(元亀3年)

里見方の正木憲時、下総西部へ進出し、禁制を出す
―下総◆
下総西部への進出を活発化させる里見義弘は、上総大多喜城主・正木憲時を派遣。憲時は船橋郷方面へ侵攻し、船橋大神宮神主・富氏に対して禁制を出した。

越中日宮城将・小島職鎮、新庄城将・鰺坂長実に戦況を報じる
―越中◆
上杉謙信の越中侵攻に際して上杉方に与して一向一揆と対峙し、日宮城に拠った越中国人・小島職鎮は、上杉家臣で新庄城を守る鰺坂長実に戦況を報告した。なおこの直後、日宮城は一揆方の攻勢を受けて落城したという。

織田軍、琵琶湖北岸を攻撃する
―近江◆
詳細後日

明智光秀、磯谷久次嫡男・千代寿の元服に際し、彦四郎と命名する
―山城◆
明智光秀は与力として従属していた北山城の磯谷久次の嫡男・千代寿の元服に際して、彦四郎(磯谷彦四郎)と命名している。

里見義弘、鶴谷八幡宮を修造し棟札を納める
―上総◆
里見義弘が自身二度目となる鶴谷八幡宮の修造を行い、棟札を納めた。この棟札では、中央の源義弘(里見義弘)を挟んで、右に源義継(里見義頼)、左に源梅王丸(里見梅王丸・里見淳泰)となっており、後の義頼と梅王丸の双頭体制を暗示している。

千葉邦胤、北条氏政の娘・芳桂院殿を娶る
―下総◆
この頃、下総千葉氏当主・千葉胤富の継嗣・千葉邦胤は、北条氏政の娘・芳桂院殿(北条氏直の姉)を室に迎えた。これにより千葉氏は、より色濃く北条氏の支配を受ける事となる。なお、芳桂院殿は1580年(天正8年)に若くして没したという。